今日はちとダケいそがしい日だったのです。いや、けしてこのHPの更新が進んでいない言い訳なんかじゃナイと、言い訳に言い訳を重ねるわけじゃ。。。スイマセン。でも、車の運転に4時間強、家事に4時間として、お外でのオシゴト的なコトに3時間ぐらいは使っているわけでして、つい今しがたiMacちゃんの前に座ったのでございます。ん〜。眠い。
今日のオシゴトの一つに、手話パフォーマンス甲子園の予選突破を目指す嬉野高校、それに協力するってのがありまして。タイトル通り、手話を使ったパフォーマンスをステージでやる、そんな催しなのです。
嬉野高校の生徒さんは、当然というか健常者のみんな。手話経験はナイに等しい感じだったり。で、このところ協力することになってから、私も手話のことを見たり聞いたり。ッて言う状況、その中で、手話のネイティブの方に親しくさせていただいたり、手話での歌の翻訳を見せていただいたり。驚くことは、今までなんとなくしかイメージ出来ていなかった手話、コレが文化や情緒がフツウに深い、言語だったということ。しいて言えば、日本語と英語が同じ言語だ、ってぐらいの感じ。考えてみればアタリマエのことが、まったくイメージ出来てなかったのです。
嬉野高校に協力ってことだけだと、健常者にとって手話を使ったパフォーマンスはハードルが高い!ってだけなのですが、イロイロ考えるに、ナンデそんなにムズカシイんだろ?ってことなのでした。逆に言えば、手話ネイティブの方が感じていることの裏返し?なのかな〜って。
「多様性」ってことがコノところの、私の考えているテーマの一つなんですが、それに照らすと、不自由なのは健常者の方なんじゃないか、と思ったのでした。コミュニケーションの多様性。それに気づけないことは、不自由だし一種の障害。それに気づいた人のほうが、より自由に近いんじゃないかと感じるのでした。
世の中には様々な方がいます。いわゆる障害を持った方も、少数派の方も。そういう人たちのことを理解しよう、なんてことはおこがましくも感じられたりするのです。逆に、それに気づけないのは、気づけない人の不幸。多様性を認めるとは、マジョリティがマイノリティを受け入れることではなく、お互いの違いを受け入れつつ歩み寄ることなんだなぁって、思ったのでした。
ん〜。まだ生煮えの考えです。ご意見、お待ちしています。
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