作詞をするって表現のイチ方法だともいえます。曲を作るのも、編曲だってそうですし、私が関わった舞台制作、ダンスや演劇もそうですし、小説や絵画などのアートもそう。表現って多岐にわたるんですよね。極論すれば、話すだけでもそうです。なにがしかの思いや感情や意思を伝えるべく表現すること。難しそうなお話しですが、誰にでも関係することでもあります。
そこには伝えたい内容があるはずで、それを伝えられるように様々な手段でアプローチしている、それこそが「表現」なのでしょう。でも、伝えたいことと伝わることには、とても大きいギャップがあるんですよね。送り手と受け手が同じ思いを共有することって、キセキに近いと思います。
私の場合、そのギャップについては最初からしようがないもの、越えられない壁として存在するものと思っています。だって、人は何十億の人がいようと同じ人はいない。すべからく違うニンゲンなのです。同じ思いが共有できるって、ホントにキセキでしかありえないと思っています。でも、それがイイんじゃないかとも感じるわけで。
ある歌を聴いて、感じることって人それぞれですし、受け取り方も様々。明るいノリノリの歌でも涙をながす方もいれば、拳を突き上げる人がいるかもしれない。しっとりしたバラードでも元気をもらえたり、明日を生きる勇気が湧く人がいるかもしれない。コトほど左様に送り手と受け手は、かけ離れた関係なのだと思うのです。
また、作詞やお芝居や小説など、言葉を媒体とした表現活動と、器楽曲などの純粋音楽やダンスや絵画やデザインなど、言葉を介さない表現活動には、そこにひとつの境界線がある気もしています。寄り添うか突き放すか、のような大きな溝がありますよね。感情のガイドライン的なものが濃ゆいか薄いか、とも言えるかもしれません。
「こんなふうに感じてほしい」という誘導があるかないか、単純に言うとそう言えるかもしれません。送り手の期待がどのぐらい込められるか、とも言えるかもしれません。歌詞のある歌は、どちらかと言うと送り手の期待度が高い表現なのかも、ですね。にしても、ホントに受け手次第でどんなふうに感じてもらっても、それはそれで結果としては尊重すべきことなのですが。
それでも、それがしようがないことであるとしても、表現者は「こんなことを伝えたい」とか「こんなことを感じて欲しい」と思いつつ、日々表現に勤しんでいることも事実。価値のあることや例え無いにしても感情のきらめきや、ほんのかすかな「共感」を目指して努力しているのだと思います。答えなんて無い、果てしない挑戦かもしれませんが。
まだまだ生煮えの考えです。でも、このところ嬉野高校に通って高校生とふれあう中で、改めて感じたことなのです。下手であろうが拙い出来であろうが、どのぐらい「表現」に向き合うか、思いを込められるか。考えさせられるのです。たぶん死ぬまで答えは出ないのでしょうね。ただただ精進するのみですね。うん、明日もガンバロ〜!
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