熊本地震、お見舞い申し上げます。

昨夜、このBlogを書いていた時に大きな揺れを感じました。もう既に24時間が建ってしまいましたが、揺れの感覚が今も鮮明に残っています。驚いたし肝を冷やしました。幸いというか私のウチには被害が出ませんでしたが、熊本のみなさんには、心からお見舞い申し上げます。できるだけ早いうちに、日常が取り戻せることを祈っています。また、熊本にご縁がある方々も、心配されていることと思いますが、心が晴れますことをお祈り申し上げます。

昨夜来ですが、精神的にキツイものを感じています。東日本大震災の記憶と家内のくも膜下出血で倒れた記憶が重なっていることもあって、フラッシュバック的なこともあるのでしょう。また、ネット上の情報やメディアの情報が地震に塗りつぶされていることにも、一因があるかもしれません。涙腺が弛み、胸の奥に痛みを感じ、パニックに陥るまではないのですが、重苦しい気分が続いています。おそらく、たくさんの方が同じような気分なんでしょう。

気功を習い始めて以来、スピリチュアルな感覚が強くなっていることも、原因かもしれません。いや、それが一番大きいかもしれませんね。潜在意識の海の中で、なにか大きなうねりが起こっているのかもしれません。苦しい感じや悲しい感じ、それに勝るとも劣らない思いやる感じや祈りの感じ。全てがうずまきつつ、私の心身を翻弄している感じがします。これがどのぐらい続くのか、気になることろですが、今のところは祈ることぐらいしか出来ないです。

以前は自分自身、スピリチュアルな感覚とは無縁な人間だと思っていました。「そういうこともあるんだろうな」「だけど自分には感じられない」鈍感な人間だと、そう思っていたのです。でも思い返してみると、そう思い込んでいただけで感覚的な刺激は受けていたような気がします。「なんとなくイヤな感じがする」とか、「いい気分」とか、自然な感覚があったと思うのです。それをスピリチュアルなものと結びつける気がなかった、というのがホントのところかもしれません。

気功を習うにつれ、深いところの感覚とか、ニュートラルに感じることなど、少しずつ受け入れられるようになっているのかも、です。あまりそういう感覚に頼り過ぎるのも不自然かもしれませんが、今の社会的な状況を見るにつけ、少しはその感覚を持っていないとマズイんじゃないかな?と思うようになりました。眼に見えないものに対するリスペクト、みたいなものはやっぱり大切なんじゃないかと。それは「無知の知」的な感覚に近いかもしれません。

目に見えるものしか信じないだとか、理解できないものには耳をふさぐだとかは、やっぱりオトナの対応とはいえないですよね。目に見えるものも見えないものも、理解できるものも出来ないものも、全てがあって今の宇宙をカタチづくっているのでは?などと感じているのでした。人間の認知度なんてたかが知れてる、そんなふうに謙虚でいたいと思います。

あらためて、熊本の方々、がんばってほしいと思います。安らかならんコト、お祈り申し上げます。

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コメント: 2
  • #1

    Sugi (金曜日, 15 4月 2016 22:32)

    お疲れ様です。
    僕も変な感覚になるっていうのか、一度命に関して大きな経験があった事で、普段の思考が普通の感覚からかけ離れていると思うのですよ。ただ、今回の地震などの映像をみて、普段は奥にあるものが顔を出してくるというか・・・痛みであったり、何もできない現実を感じたり。
    たぶん毎日身体のどこかで感じているのだろうけど・・・
    逆に冷静になってしまうというか、他人からみたら冷めてるように映るだろうな。
    熊本の方々、一日も早く日常が過ごせるようになる事を願っています。

  • #2

    お〜しマン (土曜日, 16 4月 2016 21:02)

    Sugiちゃん、おつかれ〜。
    経験が人を作る、さらには経験こそが人生なのかも、だね。自分の周りや自分自身に起こることを、ちゃんと受け止めていきたいものです。ムズカシイけど。