あおぞらが見えなかった日
[2007 短編ブックレット小説]
フロントグラスを濡らす雨と灰色の空。そう言えば梅雨なんだなと、ぼんやり考える。憂鬱さは天気のせいだけじゃないが、気を紛らわすようにワイパーを操作し、運転に集中しようとした。それでもほんの二十分前の、妻からの電話が脳裏を占領している。
個人病院が総合病院を紹介する、と言うのは誰が聞いても良い知らせだとは思わない。まして「昨日からおなかの子どもの動きが感じられない」と今朝、妻は不安げに言っていたのだ。じゃあ検診に行ってみればと提案したのは自分だ。
幸い仕事はたて込んではいない。個人事業主はこんなとき融通がつけやすいと思う。あとで電話をしなければならない客先や、業者を思い浮かべて段取りを考えたりするが、思考が上滑りしてうまく行かなかった。
考えの整理がつかないまま病院の駐車場に到着。近隣では大きい総合病院だが、駐車場は狭い。街中の病院なのでよけいに空きがなかった。やっと道沿いにスペースを見つけて車を入れる。もう妻はとっくに到着している時間だと考えながら、とりあえず正面玄関を目指した。
ガラン、とした寒々しいロビー。診療時間を過ぎているので人気がない。ほとんど照明もついていない中、顔をゆがめた妻が待っていた。ほぼ無言で診察室に招き入れられる。すでに診察があったらしい。
産婦人科のドクターが超音波モニターの前に座っていた。挨拶もそこそこに、妻が診察台に横たわる。臨月らしい突き出したおなか。定期検診で見慣れた診察風景だ。昼間なのにやけに静かな周囲、それだけが違っていた。
器具が、改めて妻の突き出たおなかにあてられていく。ドクターの優しく落ち着いた声が、ゆっくり説明を始めた。胎児の心拍がないこと、今は原因がわからないこと、出来るだけ早く強制的に分娩しなければいけないこと。
言葉自体は理解できた。妻が声を殺しながら泣いているのも見えていた。しかし何が起きたのかを理解すること、考えることが出来ない。正常な感覚で周囲のことを認識することが出来なかった。胸の内で渦巻くのは驚愕、否定。少しだけ「やっぱり」と「なぜ」と言う目まぐるしい思い。本当にショックなことが起こると、人間の心と身体は別々の反応をするのだなと、どこかで妙な感心をしていた。
理性は、状況や事実を整理しようともがいているらしい。心がそれの受け入れを拒否している。身体は自立的に動いている感じ。視界にはモノクロームのフィルターがかかっている。
診察室から病室に妻を送るとき、看護師が押すストレッチャーとすれ違う。横たわった人の顔の部分には白布がかけられていた。ここには生と死が身近に、日常的に存在しているのだ。しかしその事実も他人事のようで感情は動かなかった。
それからの数時間はとても慌ただしく過ぎていった。しなければいけないこと、しておいた方がいいこと、それらが列をなして待っていた。仕事上外せない連絡を数カ所。自分や妻の実家への連絡。いったん自宅に戻って、入院準備と荷物を取ってくること。不足している品物の買い物。後になって思い出せるのは、他人事のように事情を説明する電話の自分。また出産準備で用意した荷物の中にあった、産着やベビー用品に目がとまったこと。
あらかたの用事を済ませると、処置室で点滴をしている妻の元に落ち着いた。点滴には陣痛促進剤が入っているという。喉が渇くというので、コンビニからストロー付きのジュースを買ってくる。このような世話も、本当なら新しく増える家族に期待を膨らませ、ウキウキとやっていたのだろうという想像が一瞬よぎる。
さっそく陣痛が来たらしい。薬の効果を十分知っている看護師がすぐに来て、分娩準備が始まった。本来なら立ち会いが希望だったが、看護師から通常の分娩ではないからと遠慮するように言われた。
処置室の外の廊下に出ると、いろんなポスターがあった。健康そうな赤ん坊の笑顔、優しげなお母さんの手。別のポスターには、阪神大震災で被災し、子どもを失ったお母さんの手記が書かれていた。しかし血の巡りが極端に悪くなった頭では、しっかり受け止めることが出来ない。
ベンチに腰を下ろしスリッパを眺めた。どこにでもありそうな、どこの病院にもありそうなスリッパ。同じスリッパが処置室の入口に数組、いろんな角度で脱いだままだった。呼ばれたような気がして、ふと目を上げる。
誰もいない。長い廊下にはその瞬間、自分だけだった。
その廊下の突き当たり、いちばん奥に窓があった。さっきから何回も眺めたはずだったが、開け放たれた窓の外が緑だったことに初めて気がつく。木の緑が窓を覆っていた。雨は上がったようだ。緑色がゆっくりでもなく、そう激しくもなく、ざわざわと騒いでいた。風が出てきたのだろう。
揺れている緑色が話しかけてくるようだ、と夢想した。
ああ、そうか、と思いあたる。
以前に見た映画のワンシーンに同じような光景があった。生と死をテーマにしたその映画は、とても印象深かった。老いて病に冒された主人公の心象風景、それが風に揺れる緑だったのだ。生まれてきたからにはいつか死を迎える、その事実と命への礼賛、それがテーマだったのだなと、遠くの方で感じていた。
どこかで赤ん坊の泣き声がする。微かだったが力強かった。先ほどすれ違ったストレッチャーを思い出す。この世界では、生と死は日常的なことで本当にありふれているのだ。モノクロームの景色の中で、身体が頼りなく漂う感じを味わいながら、そこだけ色づいたような緑を見ていた。
妻は分娩の痛みに、押し殺すような声を上げていた。うつむいていると、今度はたしかに呼ばれた。
看護師が、気を遣いながら話しかけてくる。この後どうするのか、と言うことだった。はっと驚く。正直に、どうすればいいのかわからないと返事をすると、葬祭業者を紹介するという。当然の、現実的な話しだった。抱いて連れて帰ることは出来ないのだ。
電話で紹介を受け、事務的な話しをした。お棺を届けてくれると言う。サイズがないので少し大きいと思うが、それでも幼児用のものだ、と言う。礼を言って電話を切った。気が回らなくなっている自分が、可笑しくもあった。周囲の気遣い、優しさは、後から沁みて来るのだろうと想像する。
また呼ばれた。今度は処置室へ。開け放たれていた扉を一歩はいると、赤ん坊の体重を量る器具があった。横には、まだ空の小さなベッド。沐浴で身体を清めて、もうすぐ来るらしい。カーテンの向こうで、数人の気配がしていた。
看護師に抱かれて現れたのは、普通の新生児と何ら変わらない、女の子。ただ、産声は聞こえなかったし動かない。小さなベッドにおろされたその子は、私が持ってきた産着をまとっていた。
おなかの中で伸びたのだろう、爪が長い。指も、長女に比べると長い感じがした。握りかえしてはこない、小さな、本当に小さな手と指を触る。横を向いた顔は、まるでぐっすり眠っているようだ。ほんのりと温かい。
そこまで理解すると感情が急に沸騰した。胸に固い何かが突き上げてくる。手がふるえた。
次々と感情が突き上げてくる。さっきまで何も感じられなかったことが、まったくの嘘だったかのように。そしてその感情は様々な色をしていた。
抱いてあげられなかった、抱きしめることが叶わなかった。話しかけられない、あやせない、何もしてあげられなかった。憐憫でなく後悔でもなく、不純物のない悲しみ。
目まぐるしく吹き出す感情は、つまるところ「愛することが出来なかった」「愛してあげられなかった」という言葉になる。しかしそう理解するのはずっと後のことだ。
先ほどの慌ただしさとは別種の、時間軸が変わったような慌ただしさがやってきた。妻との会話もそこそこに、小さなお棺に我が子を納めて、自宅まで車で連れて帰る。その三十分程度の時間が、初めてで最後の水入らずの時間だった。
「雨、上がったみたいだね。でもまだ、あおぞらは見えないね。きれいなあおぞら、見たかったね」
独り言のように話しかける。リアシートのお棺はとても小さくて軽い。でもそれは、中の我が子には大きすぎた。
「ベビーベッド、使えなかったね」
この世に生を受けていない、と言うことで、お葬式は簡略化したものだった。それでも火葬する装置のスイッチは重かったし、出来る限りのことはした。
お葬式の後、日常が戻ってきた。しかし景色は以前と同じには見えない。暑い夏が来ようとしている。
妻の悲しみは、男性の自分には想像できない部分がある。身体は順調に回復していたが、悲しみは日増しに深くなるようだった。現実感が戻るたび麻酔が切れたように、堰を切って感情が溢れるのだ。手を握りあうぐらいしかできない。
ある夜、妻が泣く声に気がついた。それまでと同じように背中をさすろうとすると、妻は夢を見たという。娘の夢だ。
あの子が、大きく柔らかく優しい、あたたかい光に抱かれながら、まぶしい空に、はるかな天に還っていった、と言う。「ありがとう。心配しないでいいよ」と言われた気がした、とも。妻はあざやかに見えるように語った。
その夢は真実に違いないと、理由もなく確信がわいた。
以前、あの子は生まれる前から親孝行だったのかも知れない、と誰かが言った。この世に生を受けてから、それから旅立ったなら、悲しみは何倍にもふくらんだはず、と言う。しかし素直に頷けなかった。一度でいいから抱きしめたかった、と思った。どちらが良かったのかは、わからない。
しかし確かなことは、この世に生を受けても受けなくても、あの子は存在していた。そしてまぎれもなく愛していたし、これからも愛し続ける。
呼びかけるはずだった名前も、ずっと憶えているだろう。
あの子が教えてくれた、命を慈しむこと、そのこともずっと、ずっと憶えているだろう。