ヘキレキ、鳴っちゃったんです。
クモ膜下出血を奇跡的に生き延びている
奥サンとの日々
序章 はじまりのとき
イントロダクション
今はなき実家(二階建てではあるものの、狭い借家でした)で、私はテレビを観つつ寛いでいた時のお話し。もうかれこれ、三十年以上も前のことになります。その時に一緒にいたのは、結婚前だった奥サンとおふくろサン。すでにこの時は、いわゆる「結婚を前提としたおつきあい」の頃だったんですね。なので、奥サンとおふくろサンはある程度は親しくしていたわけで。しかしながらこの後、私にとっては痛烈な事件が起こるのでした。
私のおふくろサン、もう既に故人ですが、若い頃からカナリのいたずら好きだったのです。私の弟などは、小学校低学年の頃に寝ぼけてトイレに行こうとした時、ドア越しに脅かされて大泣きさせられるほど。まぁイロイロ逸話はあるのですが、そこは別の機会に譲ります。
テレビに目をやりながら寛いでいる私。おふくろサンは婚前の奥サンにガムテープの切れ端をそっと手渡して、ニヤニヤと目配せ。実際に私は目にしてないのですが、その後を考えればそうだったんでしょう。季節は少し汗ばむ季節だったので、ハーフパンツだった私。その私のスネの下辺り、足首の上のあたりに、いきなりベッタリと貼り付けられるガムテープ。丁寧にも、貼り付けた上からギュッと握りしめる奥サン。
次の瞬間「え?えっ?ナニ?」と声に出す間もなく、勢い良く下から上に剥がされるガムテープ。「あひゃ」とも「ぎゃわ」とも「ぐぁ」とも、ジブンがどんな声を出したのかさえ記憶になく。痛覚よりも驚愕が勝っていました。一瞬あとから襲ってくるヒリヒリとした痛さは、手で擦ってもしばらくは続くのでした。
涙の滲むマナコを婚前の奥サンに向けると、口を抑えながら爆笑するてい。犯行教唆のおふくろサンに至っては、手を叩いて喜んでいる始末。剥がしたガムテープをひっくり返し、スネ毛の残骸の量を見て、さらに二人で爆笑。犯行の成果、私のツルツルになって少し赤くなっていたスネの状態を眺めては、さらにさらに爆笑。おふくろサンが手に持っているガムテを見て、一連のイキサツをやっと理解した私。いやはやナントモ、怒るに怒れずなのでした。教訓としては、永久脱毛って過激にやったら意外に簡単かも?ってことぐらい。
こんな少しおちゃめな、面白いこと好きな奥サンなのでした。結婚したのは一九九〇年十一月。デザイン制作がメインだった会社のサラリーマンと、ピアノ講師としてそのサラリーマンの倍近い収入のあった奥サン。そんなカップルでした。傍目には凸凹な夫婦だったかもしれませんし、どちらかと言うとフラフラボーッとした私としっかり者の奥サンに見えたことでしょう。
そんな、言ってみればドコにでもいそうな夫婦に「青天の霹靂」が襲ってきたのは、あの東日本大震災の十日前でした。結婚から二十一年目のヘキレキ。奥サンのクモ膜下出血でした。
それまでは、まぁまぁ幸せと言えるような家庭だったと思います。ご他聞に漏れずいろんな事がありましたが、比較的に安定した家庭を築けていると思っていました。なんとなく共白髪でちゃぶ台でお茶をすすって、お互いを思いやるような老後が待っているんだろうとも思っていました。それって幻想に近いかも。いや幻想は言い過ぎかもしれませんが、少なくとも保証のある未来じゃないと言うこと、はからずも思い知らされました。
当時の私たち家族は、夫婦に子ども三人の核家族。長女(高三)、長男(中一)、次女(小二)の構成でした。私の両親は早くに離婚、母親はすでに亡くなっていて父は再婚し同じ県内にいました。また奥サンの両親は健在、車で三十分程度の場所で暮らしていました。そういったありふれた家族を襲ったヘキレキは、家族のカタチをまったくの別物に変えたのです。
この本は、そんなフツーに考えるとあまりないと言える経験から、クモ膜下出血の発症、急性期の様子、回復期の中身、慢性期(療養期)の悩みなどを通じて、代替や終末期を含む医療のこと、健康保険のこと、予防医療(未病医療)への個人的な考えや、家族のカタチについて、健康や幸せってなんだろうなどなど、読者のみなさんと一緒に考えたいと思って書きました。
私の経験が、また今でも悩み続けている考えが、みなさんの人生の中でホンの少しでもお役に立てればと思っています。結論がすぐに出るようなことではありませんし、私もまだまだ苦しんでいる途中なのですが、ご一緒に考えてもらえると、何か光が見えることがあるかもしれません。「そんなコトもあるんだね」などと思っていただければ幸いです。
プロローグ
私が以前からしているお仕事は、イベントや音楽、その他諸々の制作です。身内などもそんなお仕事の内容がわかりにくいらしく、「イベント屋」って言うと「弁当屋?」って言われたり。一口に言うと企画制作のお仕事なんですが、それでも「中身は何?」と聞かれたりもします。ある目標に向かって企画を立て、課題解決のために様々な制作にあたる、かっこよく言えばそんなことをお仕事にしています。
なので、仕事柄「工夫していろんなことに挑戦」とか「なんとかならないことはなく、なんとかしないだけ」みたいな思考が染み付いていました。自己責任っていう言葉、当然のように理解しているつもりでした。今になってみれば、浅い考えで世界を見ていたんじゃないかって、本当に反省しか無い気がします。
また自営業みたいな会社形態なので、帰りが深夜になるのは当たり前。日曜日や祝日はいわゆるイベント本番が重なることも多く、休みはあってないようなもの。奥サンからは「他人の子供は楽しませて、自分の子供はほったらかし」なんて皮肉も言われました。それでも仕事しないと食っていけないし、家庭も守れない、そんな言い訳めいた考えでした。これも若かったとはいえ、今となってはアホですね。
2011年の3月1日は、長女の高校卒業式。私立四年制大学の保育学部に入学も決まっており大学進学へのボンヤリした不安はあるものの、家庭内にはなんとなくホッとした雰囲気もあったかもしれません。十日ほど前からインフルエンザを発症していた奥サンでしたがほぼ回復しつつあり、またそこまで症状はひどくなかったため卒業式には和服で出席すると言っていました。
インフルエンザで寝込んでいたせいで、奥サンは早朝にシャワーを浴びようとしたようでした。和服を着ると言っていたので、そのためもあったのでしょう。ご近所の方から後で聞いたところによると、早朝の五時過ぎには部屋の灯りがついていたそうなので、気合を入れて起床したのだと思われます。でも三月になったとはいえ、早朝はまだかなり寒い時期。不運となる条件が重なってしまっていました。
高校の卒業式を控え、身支度に時間を掛けるために起床した長女が第一発見者、朝七時頃でした。
「お母さん、なんでそんなところで寝てるの?」
「お母さん!どうしたの?」
「お母さん!お母さん!」
だんだん大声になっていく長女の声に不穏な空気を感じて、寝起きの悪い私もさすがに目を覚ましました。
「お父さん!たいへん!お母さんが泡吹いて倒れてる!」
「どうしたっ!」
脱衣場に駆け込むと、そこにはほぼ全裸で仰向けに倒れている奥サン。最初に浮かんだのは、何かの拍子に頭かどこかをぶつけて昏倒したんじゃないか、そんなことでした。何度も名前を呼ぶと、目は閉じたままでしたがイビキのような音で返事をしてくれたような気がします。唇の端には少しの唾液が泡のようになって、まさしく泡を吹いたような状態でした。
身体が冷え切っていたので、毛布をかけつつ声をかけ続けていました。
「お父さん、救急車を呼んだほうがいい?」
「うん、すぐ電話して!」
頭をぶつけて昏倒したとしても、頭部になにかある場合は無理に身体を動かさないほうがいいことは知っていました。また、いくら名前を呼んでも返事ができない、しないということから、非常事態だということもわかりました。長女が電話で自宅の住所を説明している声を聞きながら、何も出来ない無力感とその状況についていけていない浮遊感、また「なんとかなるんじゃないか」という理由のない楽観的な気持ちを味わっていました。
それが人生を変えてしまう青天の霹靂だったことは、今になって思うこと。その瞬間、どうすれば状況が良くなるか、また長女の卒業式のことや日常的な雑多な考えが頭の中を占め、事の重大さに頭がついていっていない状態でした。そして救急車が到着するまでの時間が、本当に長く長く感じられました。
救急隊員のお二人は、たぶん状況をお話したときから状況の深刻さがわかっていらっしゃったのでしょう。救急車に乗ってからドクターヘリの要請をされていました。それは叶いませんでしたが、救急救命センターに到着したのは、想像よりもかなり速かったことを憶えています。また救急車の車内はサイレンの音がとても大きく、会話がしにくかったことも記憶にあります。以来、救急車のサイレンを聞くたびにドキドキしてしまいます。
長女は、当然ながら卒業式に出られませんでした。長男も次女もそれぞれ学校を休み、救急救命センターに来ることに。そしてそれまで想像もしていなかった、急転直下の日々が始まったのでした。まさしく青天の霹靂が襲ってきた朝でした。